小学校4年生の夏休みだと記憶しています。大阪市の叔母(父親の義妹)が実家の田舎に連れて行ってくれました。大阪府箕面市にあるその田舎に着くや否や、東京に育って田舎を今まで見た事もない私は直感的に「これこそが自分が求めていた新しい世界なのだ」という衝撃を受けました。当時のその衝撃は今でも忘れません。落ち着く暇もなく、初めて会ったみっちゃん(実家の男の子)に引っ張られて田んぼの畦道を飛び跳ねるように駆けずり廻りました。小川には赤腹イモリやメダカ、畦道にはバッタや蛙、そして大きな木の幹に隠れて蛇がトグロを巻いている姿は今でも新鮮な映像として蘇ってきます。
薄暗くなるのも忘れて駆けずり廻り、戻ったらもう夕飯が出来ていました。子供にとっては噛み切れないほど固い鶏肉が真ん中に出ていましたが何もかも素朴ながら珍しいものばかりでした。後から聞いたのですが、お客さんが来たらご馳走として、飼っているトリを絞めるのだそうです。ワイルドだなー。
翌朝早く、叔母が畑を案内してくれました。東京では虫籠付きで売っているキリギリスが朝露で光ったキュウリを食べています。流石に田舎で育った叔母は勇敢でキリギリスに赤い牙で噛み付かれ指から血を出しながら格闘して何匹が取ってくれました、嬉しく、感激。私は小さい時から大の虫好きで暇さえあれば虫の観察をしていました。私の育った世田谷(東京都)も当時は宅地の中に畑が点在し、肥料となる人糞の匂いも下校時の道すがら気になったものです。まだまだ沢山の虫がいましたーーー特に好きだったのはカマキリ、山芋の葉を食べる皮がゴワゴワの大きなイモムシ、シジミ蝶など等。中谷家の畑も正に虫だらけ、きっと何万種の大小の虫達なのでしょう。でも、今考えてみると特定の虫が大繁殖することなく複雑にバランスが取れていた事と思います。虫が多いので農作物が目に見えてやられると言った事はなかった筈です。農薬だとか化学肥料だとか半世紀前の当時は都市近郊以外には全く普及していなかったと思います。でも、当時ちゃんと健康な野菜が育ち普通に八百屋さんに並んでいました。蛇足ですが、去年茨城の農業大学の有機農法コースの実習を受けたのですが、畦道を歩くとバッタはうるさく飛び跳ね、それを狙ってか雉子のツガイが近くまでやってきます。そんな平和で牧歌的な環境の話を、慣行農法コース(農薬・化学肥料ベース)をとって同じ宿舎で過ごしていた私より少し若い実習生にしたところ、彼のコースの畑には一切生き物がいない世界で、異様さと恐ろしさを感じたとの事でした。農薬の有無でできた天と地の差程ある環境の違いをお互い目の当たりにした次第です。
さて、一週間ほど田舎に滞在し、人生で貴重な経験をさせて貰いました。夏休みに毎年遊びに行くようになり、子供ながらに生きている喜びを自然の中に感じ取りました。大きくなったら自分の田舎が欲しいと祈ったものです。叔父と同じように田舎のある奥さんを貰えば夢が叶うとその頃から考えていました。いま知人から家内とのなりそめを聞かれると、ウケ狙いで、一目見て田舎がある女性を選んだと言っています。冗談はさておき、運良く家内は地方出身であり、実家の本家は広い農地を持つ旧家です。しかし、世の中もうまくいったり、いかなかったりーーーその近くに移住先と農地も物色し、候補地も幾つか見ていた中で、あの原発事故があったのです。残念な事にその地域(福島県いわき市)では私の次の暮らしは実現できませんでした。
子供の頃のそんな体験で田舎が大好きになり今に至っていますが、学校を出て進んだのは国際ビジネスの世界です。世界を相手にビジネスをダイナミックに展開した40年近くはこの上なくエクサイティングだったのですが、私の体に深く根付いた三つ子の魂が、長い時間の後に、大好きな田舎で野菜の栽培をする暮らしに導いてくれた次第です。あの時のようにワクワクしています。